秀吉の子飼衆・加藤清正は、家康に毒殺されたのだろうか

秀吉の子飼として有名な加藤清正。

しかし、そもそも子飼衆とは一体何でしょうか?

 

豊臣秀吉には、子飼と言われる武将が多くいたことで知られています。

その代表として名が挙げられるのが、「石田三成」「福島正則」そして、「加藤清正」です。

子供のいなかった秀吉は、我が子のように幼少期(石田三成は19歳とかなり大きくなってから)から彼らに文武の教育を施し育て上げました。

そのため、秀吉への忠誠心も計り知れなかったと言われています。

 

そうした、同じ道を歩んだ3人が、なぜ、別々の道をたどることになったのか。

秀吉の死というターニングポイントで生まれた運命をひもといていきます。

 

加藤家家紋①蛇の目 加藤家家紋②桔梗

秀吉子飼いの知勇兼備の名将

加藤清正・出世街道ダイジェスト

 

加藤清正は、幼少の頃より小姓として秀吉に仕え、15歳で元服すると170石を与えられました。

親類縁者に薄かった秀吉は清正を息子のように可愛がったといいます。

清正は、本能寺の変で信長が死去すると、秀吉に従って山崎の戦いに参陣しましたが、彼の名を広めたのは、何といっても柴田勝家討伐戦である賤ヶ岳の戦いです。

清正は、福島正則らとともに 「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるほどの活躍をみせ、その武功により、3000石の所領を与えられましたた。

その後、1586年からの九州征伐にも秀吉に随行しています。

征伐後肥後に入った佐々成政(さっさ なりまさ)が失政によって改易された後に、肥後国の半分、約19万5000石を与えられ熊本城を居城とします。

 

何があっても変わらない秀吉への忠義心

 

九州を平定した秀吉は、朝鮮に出兵しました。

1592年から1598年にわたって行われた文禄・ 慶長の役です。

ここでも清正は獅子奮迅の働きをみせています。「秀吉のために」という強い意志を感じさせるものであったといいます。

ところが、この戦いの途中、秀吉の側近であった石田三成との対立が生じ、それが元で秀吉の怒りをかい、京都に戻され伏見に蟄居させられてしまいます。

(石田三成の讒言によるものだという説もあります)。

この頃大地震によって、秀吉のいた伏見城が倒壊するという事件が起きます。

このとき蟄居身分であった清正は、手勢を率いていち早く秀吉のもとに駆けつけ、警護役を果たしました。

秀吉は清正の忠義を賞賛して、朝鮮出兵の件を許したと伝えられています。

 

秀吉の死後、子飼衆・石田三成と違えた道

 

秀吉の死後は、文官代表であった石田三成と豊臣恩顧の武将たちとの溝が深まっていきました。

清正の場合も例外ではありませんでした。

よっぽど腹に据えかねたのか、三成暗殺未遂事件まで起こしています。

関ヶ原の合戦の際には、反三成派はこぞって徳川家康の東軍につきました。

清正も九州に留まってはいましたが、東軍として西軍諸将の領地に攻め込み、城を 次々に落としていきます。

この功績が認められ、肥後の旧小西行長領を与えられて52万石の大名となります。

関ヶ原の後、家康の天下となってからも、清正は 豊臣家の行く末を案じていたようです。

1611 年には二条城において、家康と豊臣秀頼の会見を取り持つなど、豊臣家のために尽くします。

この会見は、秀頼を屈服させようと家康が呼び出したもので、秀頼とその周囲は呼び出しに応じるのを嫌がりましたが、秀頼の身の安全を思った清正が何とか説得し、実現したものです。

しかし、清正はこの会見後間もなく、熊本にて死去することになります。

 

加藤清正は武勇だけではない!?実は築城の名手

 

武勇に優れた名将として有名な清正は、一方では 藤堂高虎と並ぶ築城の名手としても知られ、熊本城 や名古屋城など数々の築城に携わりました。

特に熊本城 は石垣に独自の工夫が施され、天下の名城として名高い城です。

また、 領内にお いては治水事業に力を入れました。

その土木技術は非常に優れており、 400年 経つ現在でも、清正による遺溝が多く存在するほどです。

清正の死が豊臣家の滅亡への第一歩!?

 

関ヶ原の後、家康が勢力を伸ばすことになり、豊臣恩顧の大名たちも 家康への恭順を余儀なくされていきます。

しかし、清正は家康の天下を認めながらも豊臣家(秀頼)の生きる道を常に探していたように感じられます。

明らかに実戦を目的とした熊本城築城などは、家康に対する牽制にもなっていたのではないかと考えられています。

一方、家康にしても豊臣恩顧の大名の中心的存在ともいえる清正の動向は気になると同時に邪魔な存在だっ たようです。

そのため、清正の死について、家康方の毒殺説が存在しています。

清正の存在自体が、家康に対するくさびとなっていたのかもしれません。

清正の死から4年後、大坂の陣で豊臣家は滅ぶことになります。

清正の死が豊臣家の滅亡を早めたといってもよいのではないだろうか。

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