岸内閣による新安保条約の調印は、反対する議員や労働者、学生、国内左翼勢力、一般市民も参加した戦後最大の反政府、反米運動となりました。暴力、破壊を伴うケースもあり、警官隊と衝突した女子大生が圧死するなど、大混乱のなか自然成立しました。1970年の安保と分けて語られています。
各地で安保闘争が行われる中、岸首相らが訪米。昭和35(1960)年1月19日、ついに日米新安保条約がワシントンで調印されました。
続いて国会の承認に移りますが、闘争はさらに激しさを増します。全学連の国会前デモが警官隊と衝突。さらに、社会党、共産党など野党の引き延ばし工作で審議が一向に進みません。そのため自民党は5月19日、衆議院本会議に警官隊を投入し、野党や党内の反対派が欠席のまま、5月20日未明に単独で強行採決を行いました。
6月10日に米大統領のハガチー秘書が来日しますが、羽田でデモ隊に包囲され、翌日帰国するという事態になります。さらに6月15日には、全学連4000人が国会に突入。東大生1名がデモの中で圧死するという悲劇が起こります。全学連は機動隊の暴行による死亡と主張し、マスコミも警察批判を展開します。この事件での検挙者は182名、負傷者589名に及びました。
新安保条約は、憲法の規定により衆議院通過30日を経過したことにより、6月19日に条約批准が自然成立。これを受けて岸内閣は退陣を表明、7月15日に総辞職しました。
日米新安保条約は、10年後に自動更新されます。これが後に「70年安保」と呼ばれる反対闘争を引き起こすことになります。
(右の写真)安保阻止国民会議6・15統一行動
全学連2万人が集まり、夕刻から約4000人が国会構内に乱入、南門付近で警官隊と激突
女子東大生1人が死亡、約1000人が負傷した。
1960年6月15日撮影
(左の写真)新安保阻止をめざして閉店スト
全国商工団体連合会加盟店6万が、東京、大阪、京都、兵庫、熊本、新潟、宮城など主要都市で1時間から終日の閉店ストを行った。「新安保批准阻止のため、岸内閣退陣と国会の即時解散を要求し、休業させていただきます」の張り紙を出し、閉店ストに入った東京・下丸子商栄会の商店。
1960年6月4日撮影
<主な出来事>
昭和33(1958)年
- 6・12 第二次岸信介内閣成立
- 9・11 藤山外相がダレス米大使と共同声明 日米安保条約改定に同意
- 9・30 ソ連が核実験を再開
- 12・27 自民党反主流派(池田勇人、三木武夫等)が岸首相の安保改定における強硬姿勢に反発し離党
昭和34(1959)年
- 3・28 安保改定阻止国民会議結成
- 3・30 東京地裁が砂川事件で「安保条約による米軍の日本駐留は違憲」として基地に侵入した反対派に無罪判決(伊達判決)
- 11・27 安保阻止国民会議の第八次統一行動で、デモ隊約2万余人が国会構内に入る
- 12・16 最高裁が砂川事件で「駐留米軍は違憲ではない」と差し戻し判決(砂川判決)
昭和35(1960)年
- 1・6 藤山外相と米大使の安保改定交渉妥結
- 1・16 岸首相ら新安保条約調印全権団、米に出発。全学連主流派約700人が羽田空港に座り込み、警官隊と衝突
- 1・19 日米相互協力及び安全保障条約(新安保条約)にワシントンで調印
- 4・15 安保阻止国民会議が統一行動
- 5・19 衆議院安保特別委、自民党の審議打ち切りで大混乱。警官隊を投入、野党と反主流派欠席のまま会期延長を可決。20日未明、新安保条約、行政協定を自民単独で強行採決
- 5・26 安保阻止国民会議、統一行動。17万人のデモ隊が国会を包囲
- 6・4 安保改定阻止第一次実力行使
- 6・10 ハガチー米大統領秘書が羽田空港でデモ隊に包囲され、翌日帰米
- 6・15 安保改定阻止第二次実力行使、全国で580万人参加 全学連主流派が国会に突入、警官隊と衡突、女性東大生が死亡、社会的問題となる(6・15事件)
- 6・17 東京の7新聞社、「暴力を排し議会主義を守れ」と共同宣言
- 6・18 安保阻止国民会議、統一行動 33万人のデモ隊が国会を包囲。徹夜で国会を包囲、19日午前0時、安保条約・協定、自然承認。新安保条約発効
- 7・15 岸首相が辞意表明
『報道写真に見る 日本政治の変遷』より抜粋
発行:株式会社アントレックス
写真提供:毎日新聞社
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価格:700円(税込)



今日の格言
恋する男と女がいっしょにいて、少しも退屈しないのは、いつも自分たちのことだけを話題にしているからである
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